憂鬱の科学

南樺太と朝日とNHKと


 2百年前となる江戸時代、1806年そして翌年となる1807年の二度に亘って、樺太に居住する日本人の集落を帝政ロシアの海軍将校が襲撃した事件を伝える。

 爾来、長きに及んだ樺太に居住する日本人らに対してロシアの脅威が解かれたのは1905年に締結された日露戦争に対するポーツマス講和条約に拠ってであったが、講和を斡旋した米大統領セオドア・ルーズベルトの介入に因って、樺太の領有は北緯50°以南とされ、多くの人命を犠牲にしてロシアとの戦争を戦った日本国民を憤激させた。

 しかし、革命後のロシア、即ちソビエト連邦政府は1925年に日ソ間で交わされた条約にて、ポーツマス講和条約の内容が猶有効であることを認めた。

 更に、1941年ヨシフ・スターリン首相と松岡洋右外務大臣が調印に臨んだ日ソ中立条約を、ソ連側は広島に原爆が投下された2日後となる1945年8月8日一方的に破棄し、長崎に原爆が投下された翌9日、ソ連は南樺太を掠奪した。

 1945年8月22日、連合国側が呈したポツダム宣言を日本政府が受諾した1週間後、樺太庁長官の命令に拠り樺太に在住する婦女子を北海道へ移送すべく分乗させた小笠原丸・第二新興丸・泰東丸の3隻が留萌の沿岸近くに達した時、ソ連潜水艦に撃沈され、5082名のうち1708名が死亡した。

 この事に対して、ソ連は1945年2月に行われたヤルタ会談にてスターリン首相が米大統領フランクリン・ルーズベルトより樺太全島の領有を認められたと主張したが、米政府は1956年ヤルタ会談で取り決められた協定は領土の決定に関して法律的効力を持たないものとの公式声明を発している。

 また、1951年吉田茂総理が調印したサンフランシスコ講和条約にて南樺太の帰属は何ら述べられておらず、敗戦国・日本に対して白紙のまま調印を求める内容であった。

 同条約25条は日本がソ連のために何物も失なうものでなく、またソ連は日本の領土のいかなる所も与えられるものでないことを明らかにしている。

 猶、ソ連は連合国としてサンフランシスコ講和条約に調印していない。

 ポーツマス講和条約締結後、三井財閥を代表する人物であった藤原銀次郎の経営する王子製紙がエゾマツ・トドマツを豊富に擁した南樺太に9ヶ所もの工場を建設し、第2次大戦まで国内でのパルプ材需要に対して8割までも供給を果たしたが、ソ連によって強奪された王子製紙の工場群について、1977年7月23日の朝日新聞はソ連の代表が来日し、日本政府を通じて王子製紙に対し南樺太で操業していた9工場の改修を打診して、王子製紙側が視察団を派遣したとの報道を為している。

 旧工場を視察した王子製紙派遣団が認めた姿は9工場のうち辛うじて操業を得ているのは4工場のみで、改修には相当な規模の費用を要すると断じた。

 然るに、ソ連側は費用の支弁に難色を示し、改修後に生産した製品を以てする代物弁済を打診したが、既に変動相場制へ移行していたわが国で、パルプ材をアラスカ州南東部からの輸入に頼っていた製紙業界は日増しに進行する円高基調の下、当局より認められたカルテルを結んでの操業状況であった為、王子製紙側はソ連側の要望を拒まざるを得なかった。

 すると、5年経った1982年3月24日の朝日新聞は西側ヨーロッパ諸国がソ連へのプラント輸出に攻勢をかけ始め、曾てソ連側より打診を受けた日本企業の優柔不断ぶりを批判するような論調を表し、ソ連へ同情を示すような報道を果たした。

 NHKもまた王子製紙の旧工場9ヶ所のうち4工場のみが辛うじて操業している実態を映さず、皮相な映像のみを放送し、朝日新聞と同じような態度を示した。

 朝日とNHKは昔からアカンわぁ・・・

スポンサーサイト



  1.  メッセージ・フォーム             
  2. 2020/07/27(月)
  3. | コメント:0

次期総裁選での清和会不戦論 | ホーム | 呆れた韓国大統領

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する