1931年劇団築地小劇場のプロレタリア演劇研究所に第1期生として入所した俳優の東野英治郎は大戦前には左派演劇活動家として識られ、大戦中六本木に同志らとともに俳優座を創設したが、1928年二科展に作品を入選させ日本プロレタリア美術家同盟に加わった黒沢明は1936年に今の世田谷区成城に在ったPCL(Photo Chemical Laboratory)の映画製作所に入所し、同年大戦後にソニーを創業する井深大がまたPCLに入社した。
芥川龍之介原作の小説を映像化した『羅生門』や『生きる』『生きものの記録』などのヒューマン・ドラマを以て海外で高く評価された黒沢明はまた敬愛するジョン・フォードの作品に倣った活劇として『七人の侍』で名声を得たが、本人が畢生の作品として制作に意欲した『蜘蛛巣城』とは別に海外で絶大な人気を博した作品が
『用心棒』 であった。
同作に脇役として配された東野英治郎の演技が光る名作から、米人プロデューサーは黒沢本人の脚本を米側で制作してみないかと誘ったが、その時黒沢が配役として提示した俳優の片方は敬愛するジョン・フォードの名作『怒りの葡萄』に配されたヘンリー・フォンダで、もう片方の主演配役はピーター・フォークであった。
完璧主義で鳴る黒沢が要求した予算額に圧倒された米人プロデューサーが制作を断念した為、幻の作品と化したが、黒沢本人の脚本は後年米人監督の手によって制作され、主演に配された典型的なタフ・ガイ型のジョン・ヴォイトはアカデミー主演男優賞を授与された。
東野英治郎の名演技を脳裡に泛べていた黒沢が米人俳優から選り抜いた俳優がピーター・フォークであったが、映画が幻の作品となった後、ピーター・フォークはNHKで放映された吹き替えの連続ドラマで日本でもよく識られるようになる。
築地小劇場から出発した名優、民展たる二科展から出発した世界の巨匠、狸の棲処でしかなかった世田谷の一角に建つ企業から出発したソニーの創業者・・・政府や官僚がダメでも、日本は滅びない。
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2020/08/17(月)
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