憂鬱の科学

藤沢の地名の起こり


大庭大橋 大庭大橋から望む城址 湘南藤沢卸売市場 大庭大橋
 神奈川県大和市上草柳かみそうやぎの台地から発し、藤沢市の鵠沼海岸に注ぐ引地川と小田急江ノ島線が共に南北に延びて挟まれた丘陵上に現在荏原製作所の事業所を見て、そこから引地川を跨いで藤沢市大庭へ向かう橋梁が壮観な構えを示している。

 この大庭大橋の上から南北の河畔に望む田園地帯が1千年前から変わらず稲作を営む地で、灌漑用水や動力農機の無かった往古の稲作は現代の工業における集団労働と等しく多くの労働力が集約された。

 史家が摂関政治の時代に増え始めた典型的な寄進地系荘園の一つとする大庭御厨は在地する封建領主が法的なオーナーを権門勢家に仕立て、現地代官として実効支配を遂げる態様を成したものだったが、大庭御厨の法的なオーナーは皇室の祖廟たる伊勢神宮であり、現地を実効支配したのは大庭氏であった。

 源義家による後三年の役に従った鎌倉景政の卑属となる大庭景親は頼朝の父となる源義朝を担いで大庭御厨への侵入を謀る三浦義明の軍勢に散々悩まされた。

 相模随一の兵力を擁した三浦義明の兵は大庭景親の兵を簀巻きにして鵠沼海岸に投げ込んだと伝え、自然この乱暴狼藉は伊勢神宮より朝廷に訴えられた。

 平家全盛の時代、大庭景親は平家与党として生き、伊豆に逼塞していた頼朝が打倒平家に決起した治承4年、大庭景親が等しく平家与党であった武蔵の畠山重忠らとともに箱根山塊が相模湾に向かって急峻な崖を成して突っ込んだ狭隘な土地となる東海道線根府川駅近くで頼朝率いる軍勢を叩いたのは、三浦義明の弟となる岡崎義実が肥沃な現在の平塚市一帯を押さえており、頼朝の軍勢が三浦一族の巨大な兵力と合流したならばかなりの苦戦を強いられる為の急襲策であった。

 石橋山合戦で敗走した頼朝は真鶴半島より安房へ逃れ、千葉常胤に擁立されて鎌倉へ入ったが、『吾妻鑑』はこの治承4年=1190年を以て幕府創業の年としてイントロダクションを記している。

 引地川を跨いで東から西へなだれる大庭大橋の上から北に望むこんもりと膨らんだ丘が大庭景親の居城址で、大橋の途中にて南北に延びた丘陵の中腹で削平された地所に湘南藤沢地方卸売市場の施設を見るが、この地所が1千年前から大庭氏によって開鑿された本城に対する外郭を成していたことは間違いない。

 五味文彦東大名誉教授に拠ると1300年前後に編纂されたとする『吾妻鑑』には藤沢の地名を見ないが、鎌倉幕府滅亡後に成ったとされる『太平記』に現れる藤沢の地名は兵どもが夢の址となった大庭氏の外郭址から引地川を挟んで反対側に見る大庭丘陵越しに印象的な富士の冠雪を望見することを起こりとして、六十余州に亘って百年の動乱を迎える感慨を込めた辞であったろう。
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  2. 2020/11/26(木)
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