憂鬱の科学

桓武平氏のこと


 京奠都を遂げた桓武天皇の父・光仁天皇は天智天皇の孫であり、皇統譜において672年に起こる壬申の乱より続いた天武天皇の血脈を絶った天皇として記憶される。

 光仁帝から位を襲った桓武帝の生母は高野新笠で、百済遺民たる大和乙継おとつぐの娘であった。

 斯く、桓武帝自身もまた後宮に百済永継や多治比真宗といったエキゾチックな血脈の女を迎え、子を生している。

 飛鳥部奈止麻呂の娘である百済永継は後宮にて桓武帝の子・良峯安世を生して後、後宮を退いて藤原北家の凡庸な公家である内麻呂に再稼している。

 凡庸であった筈の内麻呂が百済永継より生した子が冬嗣であり、この冬嗣の後裔が摂関家として繁栄することとなった。

 また桓武帝の後宮に入った多治比真宗は曽祖父・嶋を『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴公子のモデルとしており、多治比嶋は往時の朝廷で閣僚に就いた人物であった。

 そうした多治比真宗が後宮で生した桓武帝の子が葛原親王であり、この親王の子が平姓を賜与された。

 河内・安宿あすかべ郡の号・安宿あんすくは朝鮮の古記録に見える語で、中国の古記録では安息となって、紀元前に今のイラン・イラクを版図に収めたパルティア王朝を指し、飛鳥の語源を成す。

 安宿郡に隣接した河内・丹比たじひ郡は河内王朝がしばしば皇居を置いた地として、郡号から紀元前に見るパルティア王朝と版図を接したグレコ・バクトリア王朝の王都が置かれた今のタジキスタン共和国ソグド州に棲息した部族を想起させる。

 一般に桓武帝の子として多治比真宗が生んだ葛原親王の孫とされる平高望は上総介に任官し、常陸・下総・上総に繁茂した坂東平氏の始祖となるが、生母については諸説を見せ、藤原冬嗣を生んだ百済永継が冬嗣の兄として生し、日野家の祖となる藤原真夏の孫とした説を見て、妻を冬嗣の子・良方の娘としたと伝える。

 藤原良方の後裔は相模・大住郡にて糟屋荘を営み、鎌倉期には北条得宗家被官となっている。

 最終的に平高望は西海道国司として大宰府へ転じ、斯地で菅原道真が死没する前年に没している。

 平高望の長子・良望(国香)は常陸・真壁郡を本拠とし、次子・良兼は上総を、三子・良将は下総を本拠として、高望の三子・良将の子が10世紀前葉関東の地で未曽有の叛乱を遂げる平将門であった。

 将門が叛乱を遂げた世に君臨した朱雀天皇の父・醍醐天皇、さらに朱雀帝の弟・村上天皇の時代が延喜・天暦の治と呼ばれ、国文学上後世の公家社会において理想の時代であったと尊ばれている。

 関東の地で未曽有の叛乱を遂げた将門の従兄・貞盛が伊勢平氏や平家、さらには鎌倉幕府に君臨した北条氏を派した人物とされるが、貞盛の子・平維衡これひらは妻を陸奥の住人・長介なる人物の娘と伝え、また他の妻として源満快みつよしの娘が有ったとも伝えている。

 996年左大臣に就いて摂関政治の時代を開いた藤原道長の郎党らを世に道長四天王と呼んだが、頼朝の遠祖となる源頼信・平維衡・平致頼むねより・藤原保昌らを指し、道長四天王の一人に加えられた平維衡は伊勢・神郡下にてやはり道長四天王の一人であった平致頼と熾烈な抗争を繰り拡げ、勝利した平維衡の後裔が平安後期2百年間に伊勢平氏と呼ばれるようになった。

 平維衡の岳父となる源満快は将門と対立した源経基の子であり、安和の変で暗躍した源満仲の弟であって、維衡と同じく道長四天王の一人として頼朝の遠祖となる源頼信は満仲の子、維衡と伊勢国内で争った平致頼は将門の従弟となる平公雅きんまさの子であった。

 斯様な眷属関係を持った平維衡が陸奥の住人・長介の娘から生した正度まさのりの子を正衡、孫を正盛として、正盛を祖とする武家を平家と呼んだ。

 陸奥の住人・長介の娘を妻としたなどと後世に伝え、長介の娘を正度の母とした平維衡の後裔が伊勢平氏であり、伊勢平氏の部分集合が平家となって、史上初の武家政権を築いた平家の源流を成す人物の岳父を陸奥の住人・長介などと後世にまで伝えたことは何らかの意義を認め得るであろうか?

 そこで、維衡の父・貞盛の子であり維衡の兄・維将について見るならば、北条氏の遠祖とされる維将は妻を藤原雅正まさただの娘と伝え、雅正の父は堤中納言で識られる藤原兼輔であり、兼輔の祖父・良門は摂関家の太祖・冬嗣の子でありながら、上に言及した冬嗣の子・良方ら兄弟と異にして生涯うだつの上がらなかった冬嗣の父・内麻呂の如き凡庸な人物で、しかも内麻呂-冬嗣父子の格と等しく、良門の子として兼輔の叔父となる高藤は藤原姓であるにも拘らず諱に藤の字を重複させる不思議な観を与えて、延喜の治で讃えられた醍醐天皇の母方祖父となっている。

 北条氏の遠祖とされる平維将の岳父・藤原雅正の孫が『源氏物語』の作者として藤原道長の娘である一条天皇中宮・彰子に仕えた紫式部であった。

 斯様な眷属関係を持った平維将は左京二条万里小路に居宅を構えていたとまで後世に伝え、維将の子・維時は996年藤原道長が左大臣に就いて摂関政治の幕を開けるや、道長の甥・伊周これちかが大宰府へ左遷された折、その領送使を務めている。

 さらに平維時の子・直方は藤原道長の子・頼通に近侍して京に常駐しながら、源頼信の子・頼義に鎌倉に領していた邸を献じて、娘を稼し、その娘から生した外孫を義家としている。

 斯く史伝を振り返っていくと根本的な疑念を与えることは頼朝の遠祖となる源経基や伊勢平氏・平家、さらに北条氏らの遠祖とする平貞盛らが平将門の叛乱で関東から逐われた人物らであったことで、学者は源経基の父が清和天皇の親王であったか、陽成天皇の親王であったかと論じていることや、葛原親王の子として平高望の父とする高見王なる人物の名は14世紀洞院公定が編纂した『尊卑分脈』に初めて現れる名であり、実在性を疑う学者を見ることなどからも、鎌倉幕府の誕生直後に消滅する源氏と等しく、桓武平氏の流れとする武家についても真実桓武帝の後胤であったか疑わしく思われることだ。

 749年聖武天皇の発願による東大寺大仏殿が落成した折、大仏に鍍金した金の素材として国内で史上初となる金の発見を遂げた者を丈部はせつかべ大麻呂と伝えている。

 丈部大麻呂が金を発見したのは今の宮城県遠田郡涌谷町であったが、丈部なる部民は藤原氏の如き氏族ではなく、現代で言えば財務省造幣局の職員のような政府の現業部門に属した者らを指す辞でしかなかった。

 しかしながら、この丈部を称えた者らの中から桓武帝が多治比真宗に生ませた葛原親王の家令かみ(律令職:位階は従五位下)に就いた者が現れている。

 朝廷の正史として六国史の最期を成す『続日本後紀』833年条に常陸・筑波郡出身たる丈部氏道が葛原親王の家令として有道ありち姓を朝廷から賜与されたとし、翌年には左京七条に官舎を宛がわれたとまで仔細に記されている点は上に述べた平維将の居宅が何処に在ったかなどといった委細を尽くした伝承と似ている。

 有道ありちとは現代日本語のあるじであって、封建領主を意味した辞であった筈だ。

 この有道姓を朝廷から賜与された丈部氏道の祖父・小牧万呂の従弟として古記録は"羊"なる奇妙な名を伝えている。

 708年武蔵・秩父郡黒谷郷で史上初となる自然銅の発見が伝えられるが、3年後となる711年秩父郡を近くし、東山道が通う上野の一角に多胡郡と号した新郡が設置され、建郡を記念した日本最古となる石碑が今も群馬県高崎市吉井町に遺されている。

 碑文の末尾には多治比真人の名が刻まれ、この名は往時の朝廷で銅貨の鋳造を任ずる鋳銭司じゅせんしで働いていた多治比三宅麻呂を指す。

 桓武帝の子となる葛原親王を生んだ多治比真宗の曽祖父・嶋の弟が三宅麻呂で、三宅麻呂の後裔と思われる一族が平安期に多胡郡を近くし、上野・武蔵国界を成す利根川支流の神流川に臨んだ武蔵・加美郡下で丹荘と号する荘園を営み、製鉄を生業としていたと伝える。

 『将門記』に現れる将門配下の将・多治経明は虞らくこの武蔵・加美郡下に蟠踞した多治比氏を出自とした者であったと推測される。

 さらに日本最古の石碑は碑文に"羊"なる者に新郡の経営を委ねると記している。

 この"羊"が葛原親王の家令を務め、833年朝廷より有道姓を賜与された丈部氏道の祖父にとって従弟に該る者として古記録が伝える"羊"ではなかろうか?

 そして、711年に新設された多胡郡の経営を朝廷が羊に委ねたのは新郡設置の3年前に史上初となる自然銅の発見を武蔵・秩父郡下で遂げたからではないかと推測される。

 而して、葛原親王の家令を務めた常陸・筑波郡出身の丈部氏道の眷属は貴金属の採掘・精錬に従っていたのではないかとも推測される。

 であるが為に、朝廷の正史として六国史の最期を成す『続日本後紀』にまで仔細な記録が成されたのであって、桓武帝の子として英明を謳われた葛原親王の家令に就いた理由も得心する。

 有道姓を賜与された丈部氏道の玄孫となる有道惟広これひろは藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の家令を務め、将門の従弟となる平公雅の娘を妻としたと伝える。

 一条天皇皇后・定子に仕えた清少納言の清は清原姓を指し、下野・芳賀郡下に蟠踞した武家は清原姓を称えていたと伝え、何故少納言の名で呼ばれるのかを国文学者らは今も考究しているそうだが、下野・芳賀郡下の武家が宇都宮氏配下の有力な武家として『太平記』に現れる点、宇野宮氏が家祖を藤原道兼と唱えたことから、藤原道兼が有道惟広の主家たる中関白・道隆と御堂関白こと左大臣・道長の間に挟まれた兄弟であったことや、平安期に地下官人として少納言局の職務を世襲した中原氏という吏僚が有道氏と密接な関係に有ったと有道氏の系譜を伝える古記録が記す点、清少納言が有道惟広と何らかの関係が有って一条天皇皇后・定子に仕えることとなったのではあるまいか。

 平安期の少納言局の職務を世襲した中原氏で憶い起こすことは上に述べた藤原良門の子として醍醐天皇の母方祖父となる藤原高藤の母・高田春子であり、現代にても実に通俗的な人名を古くから伝える異常さを感得し、春子の父・高田沙弥麻呂が東市正を務めていたことを伝え、京市中の治安・民政を与った東市正は中原氏が職務を世襲した少納言局の管掌下に在った。

 一条天皇皇后・定子の父たる中関白・道隆の家令を務めた有道惟広の子・惟能これよしは996年叔父・道長が左大臣に就いて摂関政治の幕を開けた年に大宰府へ左遷された中関白・道隆の嫡子・伊周の家令を務めたが、伊周が左遷される2ヶ月前に家令職を致仕している。

 すると、上に述べた藤原伊周の大宰府左遷の折に領送使を務めた平維時の名を憶い起こさせ、有道惟能はまた菅原薫宣の娘を妻としたと伝える点、平高望が大宰府で死没した翌年菅原道真が同地で死没しており、菅原薫宣は道真卿の曽孫に該る人物であり、薫宣の甥となる者が菅原孝標であって、菅原孝標の女の『更級日記』や清少納言の『枕草子』、藤原良門の孫・兼輔の『堤中納言物語』、良門の来孫となる紫式部の『源氏物語』、また中関白・道隆や御堂関白・道長らの末弟となる藤原道綱の母の『蜻蛉日記』など、現代に遺された日本の古典文学とは有道氏の周辺に在った人々の成したものであった観を得る。

 多治比真宗を生母とした葛原親王の家令を務め、朝廷から有道姓を賜与された丈部氏道の出身地と『続日本後紀』が記す常陸・筑波郡に隣接した下総の猿島・豊田両郡が平将門の本拠地であり、将門と敵対し京に逐われた将門の従兄・貞盛の卑属とする平維将・維時父子らは実に丈部氏道の後裔が平姓を仮冒した姿ではなかったか。

 平維時の子・直方は摂関家の太祖となる藤原冬嗣の邸宅を接収しており、この直方が有道惟能の子であったならば、主・伊周が大宰府へ左遷される直前に職を致仕し、武蔵・児玉郡下の山間僻地に在った勅旨営牧に下ったとされる有道惟能の子・惟行の事績を後世に全く伝えない理由にも得心する。

 後世に全く事績を伝えない惟行の子とする経行は祖父・惟能が下った先とする武蔵・児玉郡下の勅旨営牧を本拠とし、源義家の嫡子・義忠の子となる河内経国に娘を稼し、河内経国は経行が本拠とした勅旨営牧と丘陵を挟んで隣接する児玉郡下の山間に河内荘と号する荘園を立券しており、今も埼玉県児玉町下に河内の地名を止めている。

 源義家の嫡子であった義忠は叔父・義光に謀殺され、河内源氏惣領の地位は頼朝の祖父となる為義が実力で簒奪しており、義忠の遺児・経国は父・義忠の仇である大叔父・義光を近江の園城寺で討っている。

 河内経国は経行の娘を継室として迎える前に藤原経実の娘を正室としており、藤原経実が後白河法皇の子である二条天皇の母方祖父であったことを思えば、経行が武蔵山間の僻地を本拠としながら朝廷の要路と極めて近しい関係に在ったことが推測される。

 斯くして、将門と敵対して関東を逐われた平貞盛の子・孫・曽孫とする維将・維時・直方らが実に平姓を仮冒した有道氏であったことが推測される。

 北条氏の遠祖となる平維将の弟として道長四天王と呼ばれ、伊勢平氏や平家の祖となる平維衡もまた陸奥の住人・長介なる者の娘を妻とし、嫡子・正度を生したと伝える点、有道氏が朝廷の要路に近しい関係に在ったことが陸奥の産金と関係したものであったろうことを思えば、何を意味するか十分推測し得る。

 斯くして、坂東平氏・伊勢平氏・平家・北条氏といった平姓を仮冒した史上の者らは実に陸奥の産金に関わった丈部氏道の後裔であった筈だ。

 
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  2. 2020/06/27(土)
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